片道20分の電車での通勤タイム。わずかな時間のように思えるが、この時間での読書が実にナイス。カッと集中して約20分間、物語の世界に入ることが通勤中の楽しみのひとつになる。
今回、私が読み終わったのが、『かのこちゃんとマドレーヌ夫人』万城目 学さん作の小説。恥ずかしながら万城目さん、たった今読み方を知りました。「まきめ」さんなんですね。「まんじょうめ」さんだとばかり思っていました。いと恥ずかしや。
この本を選んだ理由
・万城目さんの『プロンセス・トヨトミ』を読んでおもしろかったから、同じ作者の本を読んでみようと思った。
・タイトルがほんわかしていて、かわいい。
・表紙の絵が、かわいい。
である。実は、今回読んだのは2回目。ひとつ前の本を読み終わり、はて次に通勤中にどの本を読もう、、、そうだ、久しぶりに読もう!と思い立って、この本を選んだ。
ストーリー
「かのこちゃんは小学1年生の女の子。玄三郎はかのこちゃんの家の年老いた犬。マドレーヌ夫人は外国語を話せるアカトラの猫。ゲリラ豪雨が襲ったある日、玄三郎の犬小屋にマドレーヌ夫人が迷い込んできて…。元気なかのこちゃんの活躍、気高いマドレーヌ夫人の冒険、この世の不思議、うれしい出会い、いつか訪れる別れ。誰もが通り過ぎた日々が、キラキラした輝きとともに蘇り、やがて静かな余韻が心の奥底に染み渡る。」
裏表紙より引用。
「そのまんま」って最高。
大人になるにつれて、どうも子どもの頃のようなワクワクした感覚ではいれない節がある。思ったことをはっきり言いにくいし(これを言ったらウザがられる?)、やりたいって思ったことをすぐに行動しにくいし(お金がかかるから今はやめとこうか)、その他もろもろということにしておこう。読んでくださっている方それぞれにも、きっとなにかあるのではないでしょうか?
それでもようやく、ここ数年の間で、だいぶ子どもの頃の感覚に戻れているような感もある。
例えばお皿洗い。夕飯を食した後、以前なら「あー、お皿洗うのめんどくせーなあ」って面倒に思っているのにも関わらず、渋々皿洗いを開始していた。あらいながらお皿やシンクが綺麗になっていくことをいいことに気分がのってくることもあるが、タチが悪いのがイライラしてくる場合。そんなときは、洗っても洗ってもお皿の減りが遅く感じるし、カゴに乗せる皿の傾きに「マジ最悪」と私がギャル化してくる。さらにイライラがノリににってくると、横でYouTubeを見て楽しんでいる相棒に矛先が向くのだ。マジでタチが悪い。
そう、自分のタチの悪さが「わかる」ということは、すごく大人になったなあと自分なりに思う点。そして子どものこその感覚に戻ってきたなあと思う点は、「めんどくせー」と思ったら、その時点でお皿洗いをやめられるようになったこと。夕飯後、洗うかーと思っても、いざシンクの前に立った時点で1ミリでも「めんど」と感じた時点で、やめる。先に相棒と一緒にYouTubeを見たり、アニメを見たりしてから、「洗お」と思ったときに立ち上がるのです。このタイミングが絶妙で、しっかりお皿洗いのことを忘れて鑑賞タイムを満喫していると、お皿洗いしたくなるタイミングが気分転換の気分になる。まあ、ごくたまに、それでもなお洗いたくないときは、相棒におねだりする。時には色仕掛けなんかしてみたり(たいがい笑われて終わるけども。)、相棒自身も気分が乗ったら洗ってくれるし、乗らなければNO。最終局面。わたしは寝っ転がり、腕と脚をバタつかせて「あ〜いやだなあ〜」とダダをこねてから皿洗いを始める。シンクをそのまんまで寝床につくのはもっと嫌だから、洗うことは洗うのだ。ただし、いつもみたいにシンクまでピカピカにはしない。必要最低限。お皿を洗うまでだ。
「めんど」って思ったことを認識したり、認識したそのままの行動をとれたり、ダダをこねたり、本当に私は子どもの感覚に戻れるようになったなあと思う。そう、この『かのこちゃんとマドレーヌ夫人』の話、かのこちゃんの行動や感情を一緒に体験しているような感覚を頭で妄想し、私は毎朝電車のなかでイヒヒと楽しんでいたというわけです。
難しい言葉を自分なりに捉えようとしたり、「これも茶柱だー!」って大発見したり、愉快な友達に出会ったり、猫のマドレーヌ夫人と犬の玄三郎とテレパシーで会話したり。
なんだか穏やかな、そして豊かな風景を、かのこちゃんとマドレーヌ夫人の視点から体験することができた時間になった。
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