「スマホと財布、落とすとしたらどっちがいマシ?」
そんな質問が、パート仲間から飛んできた。どうやらとあるテレビ番組でそういうテーマの、、、なにかがあったようだ(笑)。私はその質問を聞いて、即答した。
「どっちも嫌ですねー!!」
これはもう即答だった。だって、20歳からずっと使ってるお気に入りの革のお財布を無くしたくないし、お金やクレジットカード、免許証など、落としたら絶対!面倒臭い!!お金がなくなるのも嫌だし、カードの使用を止めるとかの手続きも面倒だし、免許証は…なくしたらどうすんだ?とにかく、お財布は、落としたくはない。
そしてスマホ。スマホだって、数年連れ添ったお気に入りの赤いiPhoneを落とすなんて!!しかも、お気に入りの「SPY×Family」のアーニャのシールを貼っているし。写真もしこたまデータがあるし、これまた大事なデータだらけじゃ!スマホだって絶対、落とすのは嫌!!
ということで、「どっちも嫌。」というのが私の答え。ちなみにパート仲間の答えは、テレビを観ていた時はどちらかだったそうだが(←忘れた。笑)、私の話を聞いて「そうだよねー、どっちも嫌だよねー。」となった。
ちなみにそのテレビ番組の内容の詳細を、その後詳しくは聞いてはいないが、「どっち?」を聞いて、なにを楽しむ番組内容だったのだろうか。「スマホ派」「財布派」で論争を繰り広げる模様だったのだろうか。だとしたら、滑稽すぎる。誰も落としたくはないブツのはずなのに、なんでそんな仮定話で、論争を繰り広げる必要があるんだろうか?というか、その話、なにが楽しいんだろうか?
と言いながらも、私もしっかり土俵に乗って「どっちも嫌。だって…」と理由をベラベラと気づくと書いていた(笑)。
さて、この「どっちを選ぶ?」の考え方。いざ問われると、「どちらか一つを選ばなければいけない」「どちらか一つを選ぶなら」と、もうこちらの答えを出す前に、答えが決められてしまう。「どちらか一つ」と。これってどうなんだ??
でも、そもそも”答え”って本来は決まっていないはず。人それぞれ違う内容なはず。なのになぜ、どちらか一つだけを選びとる必要があるのだろう。そこに思わぬ自分の思考や行動を制限する空気感が漂っているように思う。その空気感を察知してか、どちらか一つだけを選ぼうとするのだが、一つだけだと考えること自体がそもそも多くなる。それこそそこには「比較する」ことも思考の中に入ってしまう。
「欲しい」なら、どっちもでいいのに。
「欲しい」には、変わりないはずなのに。
一旦「比較」の思考が入り込むことで、素直にまっすぐに”自分の答え”を”選択することが、日常的に難しくなってしまっているのではないか!?
そんな「二者択一」の考え方を認識してからの、とある日のウォーキング。
途中休憩としてマクドナルドに入店した。その時の自分の状態としては、「それほどお腹は空いていないけれど、塩気の効いた、そうマックポテトが食べたい!」そして、「冷たいすっきりとした飲み物を飲みたい!」に加え、「ほっこりしたい!」であった。
そんな私が注文したメニューが、こちら。
マックフライポテトSに、ケチャップ。オレンジジュースにホットのカフェラテ。「欲しい」と思ったもの、全部を注文してみた。この写真だけ見たら、「どんなごっちゃな内容の注文だ笑」になる。
でも、いいんだ〜。ゆうちゃん大満足、幸せハニカム、ほっこりタイムだった。
「二者択一」は、ヒトを幸せにはしない。
幸せにするのは、「二者択二」。
なんなら「三者択三」。いや!「四者択四」。「五者択五」…。ようは、「いつくでも選ぶこと」だな!!
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