ゴルフのラウンドコースでの出来事。
相棒の打った球が、コースのど真ん中を牛耳っている1本の木に直撃した。
ッコンッ!!!!
数多ある空間の中から、その木の幹にボールを当てた。これは逆にすごいことだ。「すごいこと」とはいうが、幹にボールがヒットしたせいで、せっかくグリーンへ向かっていたボールの弾道が跳ね返って戻ってしまった。ゴルフ的には「すごいこと」よりも、「戻ってきちゃったー!」なちょっと残念な出来事だ。
しかしながら、ゴルフコースとは面白い。ちゃんと「邪魔」な位置に、木が植えられていたり、バンカーがあったり、景色が爽快すぎたり。ボールを打つ人間の行為に、しっかりと負荷がかかるように情報が至ることろに散りばめられている。
先ほどボールを見事に命中された木だって、そう。わざわざあんなところに、生えてなくていいんですよ、木さん。わざわざそこに君臨されている、木。人間が意図的に生えさせた、その木。
その木は、今までどれだけのボールを受け止め、跳ね返してきたんだろうか。
どれだけの人間からの「あの木が邪魔だなあ」の想いを受け止めてきたんだろうか。
「ああ、あの木も大変だなあ。」そんな想いを馳せてしまったが、しかし。よくよく考えてみると、「大変」というよりは「本望」というか、しっかりとそこに生きて君臨しているだけの、その木。なにも「大変」なんて感じることって、ないんじゃないか。
人間に生えさせられたと言えども、確かに大変なのであれば、「朽ちる」という選択肢も木には選べたはず。「もうそんだけボール当てるなんて、まじ痛いからヤメてよー」なんて声をあげる時には、きっと朽ちはじめていくんだろう。でも、その木はしっかり存在している。今日も君臨して、相棒の放った強烈な弾丸ボールを受け止めて跳ね返した。
そうか、木は、ただ単にそこにいるだけなんだ。ただそこにいるだけで、仕事をしていることになっている。生きていることになっている。別に大変なことなんて、ない。ただそこに、いるだけだから。
「大変ねえ」と思うのって、完全に「大変ねえ」と思う側の”エゴ”というか、ほんと勝手だ。別に相手からしたら何も大変なことなんてないのに、ただそこにいるだけなのに「大変」と意味付けられて同情の想いまで投げつけられてしまうんだから。
でも、木を感じると、ボールだけじゃなくそんな同情が投げつけられても、「…」な状態。いつもと変わらない、ただそこにいるだけの状態。受け止めるとかもなく、ただそこにいるだけの状態。
木に学ぶ、「ただそこにいるだけでいい」状態の姿だった。
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