「ゲーム」の印象って、私の場合は”いいもの”ではありませんでした。”いいもの”というのは、「人生において有意義になるもの」だったり、「ためになるもの」だったり、「なにかに役立つもの」という意味でした。当時子どもの私が、漠然となんとなく捉えていた定義です。
今でも鮮明に覚えているのは、小学生ごろにハマっていたテトリス。私と妹と母とで、一個しかないテトリスの小さいゲーム機を、取り合うようにずっとテトリスをしていました。でも、夢中になってゲームもしていると、横からゲームを楽しんでいるはずの母が言うんです。「あー、ゲーム中毒になるわあ。家事が何も進まへん。」って。とは言いながらやめるわけでもなく、「もう1試合!」「もう1試合!」と”やめられない”姿の映像が、プレイバックします。そしてそんな母の姿を見て、父も「お前なあ。」と何とも言えぬ空気感を醸し出して、呆れた顔でそう言うんです。そんな姿や言葉たちや空気感を察知した私は、こう思いました。
ゲームは、夢中になっちゃあ、いけないものなんだ。
そればっかりやっちゃあ、そのほかのことがなにも進まなくなるから、夢中になっちゃダメなんだ。
ああ。今、書きながら、恐ろしい点に気づいてしまいましたねー(笑)。
この時は「ゲームをする」という事象を、そういう対象として見ていましたが、私のこの「夢中になっちゃあ、いけないものなんだ」「そればっかりやっちゃあ、そのほかのことがなにも進まなくなるから、夢中になっちゃダメなんだ。」って、実はゲームに限らず、そのほかの事象に対しても、その判断が入るようになっていました。
例えば、欲しいものがあったとします。今だったらそうですね…新しい下着が欲しい!(笑)だいぶ着古していて生地も伸びたし、痩せたからサイズが大きく感じるし、柄にも飽きてきたしで、新しい下着が欲しい。でも、そこで私、素直に「欲しい」のまま現実を進ませないんですよね。「いや、まだ着れるし。いっか!」と思って、お店にも行こうとしないんです。とりあえずどんな下着があるのか、どんな下着が欲しいと思うのか、見にいけばいいのに。
でも、行かない。
なぜか。
この「欲しい」って思うことを皮切りに、それ以降の現実がイコール「夢中になること」と同じような、そんな自分の状態を感じるんです。
そう。「夢中になること」。
『夢中になっちゃあ、いけないものなんだ。』
『そればっかりやっちゃあ、そのほかのことがなにも進まなくなるから、夢中になっちゃダメなんだ。』
子どもの頃のゲームにしても、夢中になってテトリスを何回もしている時って、「こうしたい!」の自分の状態が炸裂している状態です。テトリスがやめられない母の姿も、そうでした。「あー!うまいこといかんかった!もう1回!」「よっしゃー記録更新!もう1回!」この、ズンズン進んでいく、この感じ。
下着の話に戻ると、「新しい下着が欲しい」と思ってお店に行って「どんな下着が欲しいかなー」って物色すること。「これかわいいなあ!」「これいいなあ!」「こんなのも着やすそう!」と「こうしたい!」の自分の状態が炸裂している状態です。欲しい下着を見つける現実へ、ズンズン進んでいく、この感じ。
ズンズン進んでいく、その感じを察知すると、私はこう思っていたんですね。
『夢中になっちゃあ、いけないものなんだ。』
『そればっかりやっちゃあ、そのほかのことがなにも進まなくなるから、夢中になっちゃダメなんだ。』
きゃー。恐ろしい思考に気づいちゃいましたねー。
そら欲しい下着に出会わないし、買う現実にならない。だって、出会いに行こうとしていないんですもん。欲しいくせに、自分でストップかけちゃっていたんですよねー。あー、ナンテコッタ。
さっ、これからはゲームに限らず、自分の目の前に現実に、夢中になりまくってやろうと思います。
夢中になって、なにが悪い。「悪い」ことなんて………え、なんもないやんかっ!!
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