わからない。わからない。なにもわからない。
わからないことがもどかしい。
わからない「自分」も悔しい。
わかるように説明してくれない「誰か」も恨めしい。
「誰か」のせいにしている「自分」がさらに憎らしい。
もう、なにが何だかわからなくなってくる。
小さな頃によくあった。
勉強でわからない問題にぶち当たると起こる「なにもかもがわからない爆発」。
自分で考えて、答えが見えなくて。
降参して答えを見て解説を見るけれど、さっぱりわからない。
ということで、誰かに教えてもらう。
でも、それでもわからない。
爆発。そして、泣く。
私はこうやって、ある意味「壁」を避けて生きてきた。
いろんな「わからないこと」まで広げて考えるけれど、結局負のスパイラルってやつにハマったまま。
肝心な現実の「自分」は、何もしなかった。しようとしなかった。動けなかった。
でも、いざ大人になって自分の生活を作り上げていこうとするとき、
またぶち当たる。
でも、またぶち当たるということは、「自分」がアピールしているからなんだ。
動いてみたら、いいじゃない。
視野を広げてみたら、いいじゃない。
考えても考えても何も変わらないよ。
結局、どうしたいの?
そう、小さな頃の自分にそっと言ってみたいことがある。
わからないことがもどかしい。
なんで「もどかしい」の?わからないことに出会えてよかったね、新しい選択肢を見ることができるね。
わからない「自分」も悔しい。
なんで「悔しい」の?なにも悔しいことなんてないよ。
わかるから「すごい」、わからないから「ダメ」もない。なにも「悔しい」ことなんて、ない。
わかるように説明してくれない「誰か」も恨めしい。
「自分」が「わからない」のだから、「誰か」は関係ないよね。結局わかる時や腑に落ちる時って、ちょっとした自分の勘違いが解けた時。
それに、「誰か」が説明しているけれど、その情報を聞いているか聞いていないかも自分次第。
ほら、「自分」でしょ?そこに「誰か」は関係ない。「誰か」はなにもしない。「誰か」のせいじゃない。そして「自分」のせいでもない。
「誰か」のせいにしている「自分」がさらに憎らしい。
あなたは「ダメ」な人じゃないよ。
全部、自分で作り上げた「なにか」に当てはめ、「なにか」から外れたから自分で自分を責めている。
そして、目の前の問題は実際に解決はしない。
結局、なにがしたいの?結局、なにがやりたいの?
「自分」を責めたいの?
問題を解きたいのか?
「なにがしたいのか?」
これを見失うと、自分がおかしなことになるし、とても「イライラ」する。感情が揺れまくる。
そうなった時は、
「なにか」を解き、「何がしたいのか?」を自分に問いてみる。本当に自分がやりたいことに戻るチャンスだ。
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