「我慢」それは無意識のうちにしているもの。
「我慢」それは子どものころから慣れ親しんだもの。
「そういうもんだから」で物事が進んでいく。「我慢」って、自分で気が付くことが難しいもの。だって、もはや「我慢」とも思っていないのだから。
でも、我慢は我慢だから、知らず知らずのうちの体調に影響がでてきていたり、自分の気持ちが揺れていたり、自分を傷つけていたり。そう思うのです。
そんな自分の我慢に気付くための視点を、自分なりにつかんだ気がしました。まさに、私だけの私のため視点。私専用の視点です。
私の場合は、誰かに強要しているものが、実は自分にも強要していることの可能性が高いことがわかりました。自分にも強要しているということは、私、我慢していますよね。自分で自分に「頑張れ!やるんだ!」ってお尻ペンペンしていますよね。
大抵、相手が存在して出来事が起こった時の私は、「むかっ」としたり「ん~~なんだかなあ」なんて、むしゃくしゃします。
「私はこうやってるのに、なんであなたもそうしないの??」そんな感じの、ある種の価値観の押しつけに近いもの。
例えば、相棒と一緒に長距離を移動したときのこと。到着した瞬間に相棒が放った言葉「あ~やっぱり疲れるね」。私はその発言に違和感を覚えました。
「んん?疲れたぁ??この移動方法を自分でご機嫌に選んだんじゃないの〜??なのに”疲れた”~??」
私自身は、その移動中のおしゃべりや風景や疲れも、全部”楽しかった”のです。というか、”疲れた”って聞くと、なんだかそれまでの移動の”思い出”が”疲れた”思い出になっちゃう。
はい、そこで私は勝手に判断をしてたことに、気がつきました。
そしてその判断で、相手をさばき、自分自身もさばいていました。
私が勝手に判断していたのは「疲れた」という言葉。『疲れた=悪いこと』みたいな価値観。さらには「疲れも楽しむもんだろ」みたいな、”楽しまなきゃ精神”。だからこそ、「疲れた」という言葉を聞いて自分がいい気がしないから、言わないようにするべき。
自分自身で気を付けていました。友達と旅行とかにいっても、「疲れた」って言わないようにしていました。お互いで「疲れたね~」っという時しか言わない。
でも、ここでの相棒は、本当に肉体的にただ単純に疲れていただけで、「疲れた」と表現していただけなのです。(いつもいつも「疲れた」って言っているわけではないし、口癖でもないのにね)その言葉をきいて、私は、なぜか不機嫌になっていました。「疲れただとぉ~」って。
でも、この出来事が起こったことによって、自分の表現に、自分で制限をかけていたことに気が付きました。楽しいなら楽しいで、それでいいじゃん。疲れたなら疲れたで、それでいいじゃん。自分の「楽しい」を、相手に強要する必要もないのに。「疲れた」に判断をかけすぎていたことに気がつきました。自然と相手がメインになるように考える身体の使い方になってるなあとも思いましたねえ。
もっと自分でいいんですよね。
もっと自分にエネルギーを戻して、大丈夫みたいです。
以上が、自分の中に誰かが登場した時わかる、私の我慢の発見方法でした。
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