カラダとの向き合いかた。
本当の意味での、自分のカラダの声。
自分のカラダとのコミュニケーション。
お腹が痛くなる。
第一声に・・・第1に自分の中に出てくる言葉はなんだろう。
「何〜〜〜〜!?どうしたってのよ(@。@)??」
それは、イライラしたものだった。
この後、友達との約束があるのに。
もう直ぐ仕事に行かなきゃいけないのに。
今日はたんまりやりたいことがあったのに。
自分の思うようにいかないことへの、憤りが
やっぱりまずはじめに出てきていた。
そしてその憤りが、ますます自分のカラダを「攻撃」していく。
カラダは、声を出している。
その声に対して、私は何を思う??
痒くてかいた手がヒリヒリして、動けない。
「大丈夫、治るから、私のカラダは、治るから。」
”大丈夫”
その”大丈夫”は、溢れんばかりに出てくるもどかしさに対しての言葉だった。
掃除がしたい。でも手が動かない。できない。
お金を払いたい。でも手が動かない。できない。
自分の思うようにいかないことへの、もどかしさが
やっぱりまずはじめに出てきていた。
そしてそのもどかしさが、ますます自分のカラダを「攻撃」していく。
カラダは、声を出している。
その声に対して、私は何を思う??
痛いとき。違和感があるとき。
それは、それまでのカラダへの自分の対応の「結果」に過ぎない。
ただの、「結果」。
結果は、結果。
そして原因は、その「結果」にはない。
「結果」には、何もない。
原因は、それまでの過程にある。
それこそ、カラダとの日ごろのコミュニケーション。
いつも、どんな言葉をつぶやいている?
自分自身に対して。自分のカラダに対して。
特に慢性的にその症状が出ているときは、ビッグチャンス。
「まだあるよ、ねえ、気づいてよ。」
そんな声がカラダから発し続けられている「結果」だから。
理想的なコミュニケーションを瞬間的にやっても、意味はない。
なぜなら、その瞬間的なコミュニケーションは「偽り」とも言える。
「飾り」とも言える。
本気なら、
心底思っていることなら、
いつもそのコミュニケーションになるはず。
「そうか、そうだったんだねえ。ゆっくり休むよ〜。」
ただ、感じる。
その症状に自分の「思い」を乗せることなく。
そんなカラダとのコミュニケーション、とってこなかったなあ。
本当の意味でのカラダとのコミュニケーション。
カラダの声を、そのまま、受け取るんだ。
いや、書きながら思った。
カラダじゃない。自分自身とのコミュニケーションだ。
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