先日、誕生日を迎えた。
1年ぶりのスペシャルデイに、自然となんだかワクワクしてしまう。
もちろんワクワクもするし、しみじみと思いを馳せる日にもなる。
ああ、自分は~年前の今日にこの世界に生まれたんだな〜。
いろんな事を経験してきて、今日この日を迎えているのだな〜。
と。
そして何より、
「誕生日」という前置きが、絶大なパワーを発揮する日にもなるのだ。
にわか勝手に主役になるし、
なにより!最も自分の希望が叶いやすい瞬間である。
いろんなモノに満たされる、この瞬間!!
小さい頃からこの”味”がたまらないんだぁ~!!笑
思い出にも浸れる、
注目の的、
誕生日の威力はいやはやなんとも凄まじい!
注目の的になるといえば、
知り合いの中には「誕生日やからといって、盛大にしないでくれ」と言う人もいる。
私は注目の的になりたくないのだ・・・。そっとしておいてくれ。
そしていざ自分の誕生日が知れ渡るものなら、
決死の覚悟と言わんばかりに自分の存在感をミニマムサイズになさる。
そんな人を見て思うのだ。
そんな謙遜しなくていいのに〜。
せっかくのお誕生なんだし、この「主役の日」というチャンスを存分に生かしてもいいんじゃないだろうか。
なんて、お節介に私もお祝い側に加勢するのだ。
そんなお節介ヤロウの私も、1年ぶりに迎えたハッピーデイ。
ものすごく久しぶりの交信となる知り合いからお祝い&近況を気にかけるメッセージや、
「お誕生日おめでとう!」と、「hello」と同じくらいポップなメッセージがたくさん舞い込んできた。
はあ〜、ありがたや、ありがたや。
「おかげ様で〜歳になれました。」
「おかげさまで無事にこの日を迎えることができました。」
そうだよね、
今の私が存在しているのは、今までの人生で関わってきた人たちの影響もあってこその、「私」だ。
「ゆうちゃん」というパズルがあるとしたら、
ピースの一つがAさん、もう一つがBさんというように、すべてのピースがあってこその「ゆうちゃん」である。
そしてそのピースは、これから生きて行く限り、どんどん増えていくのだろう。
そしてそして、「お誕生日」という人類共通であろうめでたい日になると、
そのはめ込んだピースたちが動きだすのだ。
モゾモゾ・・・。
ピースをはめ込んで”完成”に近づいていると安心していたが、忘れた頃に動き出すのだ。
モゾモゾ・・・。
「そういや、あいつ今日が誕生日だったよな。」
なんて、普段「ゆうちゃん」のことを忘れているくらいだったのに、急に思い出す。
これぞ「ゆうちゃん」が蘇る瞬間。
しかも、今やSNSというものがある。
「今日はゆうちゃんさんのお誕生日です」なんてお知らせを見たものなら、
イヤでも「ゆうちゃん」が蘇るのだ。
ゆうちゃん自身も、そのピースを再び見つめる機会となる。
「はて、このピースはどこの場所がぴったりなピースやったかな?」
まさにお誕生日は、”復活祭”だ。
”蘇る日”だ。
「おめでとう」という言葉とともに、「ゆうちゃん」が蘇り、「Aさん」が蘇り、「Bさん」が蘇り・・・。
あちこちで「ゆうちゃん」が復活するし、自分自身の中でもいろんな人が復活する。
なんともまあ、忙しい1日だ。
でもそうやって蘇り続けてふと0時を過ぎると、
いつもどおりの日。
あの時間は、一体なんだったんだろうか・・・。
そんなある種の”喪失感”というか”空虚感”のようなものをふと感じた。
蘇っては静まって・・・。なんだか相当のエネルギーを使った気分になった。
そんな気分に浸っていた時に、しみじみ思ったことがある。
「ミニマムサイズが、一番平和かもしれない。」
”今”を生きることが、
着実に「ゆうちゃん」パズルを完成に近づける・・・。
となったら、いつもの日を楽しく過ごすに越したことは、ないですな。
そんなことを思った、”復活祭”でした。
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